2011年6月17日金曜日

親密な人と対立するのを恐れて素直になれなくなる。どうしたらいい?

 自分が正しいと決め込まず、学ぶつもりで会話しましょう



私たちは、コミュニケーションが思うようにいかないと、自分を隠すことで対立を防止するために、コントロールすることがあります。逆にコミュニケーションの混乱を引き起こしますが、自分を防衛しているため気がつきません。

こんなときに、対立を意識するより、学習を意識すると、防衛的にならずオープンになれます。私たちは、「学びたい」と思うとき、好奇心に満ちていて、とっても柔軟です。オープンにならないと入ってこないので、驚くほど無防備になり、相手の要求にも応じる態度が表現されます。

対立から学ぼうと意識するだけで、コミュニケーション力は飛躍的にアップするのです。

自分が正しいと決め付けると相手に攻撃的になり閉鎖的になります。しかし学ぶ気持ちが強いと、致命的ともいえる相手を責める気持ちがなくなり、温かさが生まれて、自分の気持ちと行動に責任をもつようになります。自分を知るモチベーションが高くなり、自分の知らない自分を発見したい気持ちが強くなります。

このようにコミュニケーションの態度はすっかり変わってしまいます。

・私は何を恐れているのか?
・それがなぜ、こんなにこわいのだろう7
・私は何を求めているのだろう?
・私はなぜ動揺したのだろう?
・私が怒っている目的はなんだろう?

発見するポイントはまだまだいくつもあります。是非、感情的にならないように、意識を変えて発見してみてwください。


2011年5月27日金曜日

境界がわかりません

人と人の境界がわかりません






責任を果たすことを優先する

自分の感情や考えを大切にして、行動するために境界が果たす役割は重要です。
しかし、自分と他者の間にある境界が分らないという人は少なくありません。
どうしたら発見できるのでしょう?

 境界が分らないという人は、自分の責任と他者の責任の認識ができないのが混乱の原因といえます。
たとえば自分の責任でないことを、「おまえのせいだ」と言われて感じ方・考え方を他人にコントロールされてしまう体験を数多くしてきた過去があるのかも知れません。

感じ方・考え方を他人にコントロールされてしまうのは、責任の範囲が整理できないまま育ってきた経緯があるのかも知れません。
親子をはじめ、どのような関係であっても、他者のとの違いを認めあえることは、人権の尊重に他なりません。責任はその延長線上にある問題です。

自分の責任で行動を決定できる、
思ったことを言葉にするかどうか自分で選択できる

これらは憲法で保障されている人権であり、アサーティブであることに欠かせない条件ですが、実際には親しい人との関係で障害が発生することは少なくありません。
恋人、夫婦、親子というように親しい関係であるほど、人権が無視されることが少なくなく、それが他者との関係にも持ち込まれることで、人間関係を複雑なものにし、コミュニケーションに障害の原因になっています。

コミュニケーションにつらい思いが伴うとしたら、もう一度、原点に戻りましょう。
それは親子の関係です。親子は切っても切れないもっとも親しい関係ですが、だからと言って正しい関係性であるかどうかは、約束されたものではありません。

虐待事件が語るように、人権を分かっていない親はたくさんいます。虐待事件に発展しないまでも、精神的にはそれに準じる状態である場合を含めるとその数は莫大なものになるでしょう。

 結婚することと恋愛することは次元の違うことです。結婚生活にはそれにふさわしいスキルが必要です。子供を育てることと、結婚することも次元が違います。芸能人の話題になる「出来ちゃった結婚」は、必要なスキルとは関係なく起こった状
態にすぎません。この種の報道が一般人の意識に与える影響は笑える話ではありません。

・他の人が悲しんでいたりがっかりしていると、自分がうしろめたさを感じる
・期待されると、本当はイヤなのに「ノー」と言えない
・相手の反応を気にして、自分の気持を言葉に出来ない
・相手の反応がこわくて、要求を言葉にできない
・相手に合わせて、自分の考え方を変えてしまう
・自分の判断や意見を相手が受け入れてくれるか不安になる
・相手の問題を解決するため、相手以上にあなたが必死になっている
・相手がやった不始末の責任を、あなたがとってしまう
・相手があなたの問題を解決してくれることを期待している
・相手があなたを「幸せにしてくれる」ことを期待している
・相手にあなたがするべき決断を任せてしまう。

以上は、境界の混乱が起こっている事例です。
相手の考えは相手のものです。自分が責任を負う必要はありません。
逆に自分の考えは自分のもので、相手に責任を負わせることではありません。

しかし、親しいと「分ってくれるはず」というように期待が膨らみ、言葉以外のコミュニケーション手段を通じて、コントロールしてしまうことが少なくありません。
境界の越境が始まり、もともと人権の理解が曖昧だと混乱が生じてきます。

たとえば、相手があなたの問題を解決してくれることを期待している場合には注意が必要です。親しい関係である場合、自分の問題が、ふたりの問題になる場合が少なくありません。本当は相手の問題なのに、情熱から自分が責任を引き受けること
はありますが、境界を認識した上で、自分が納得して引き受けるべきなのです。

その場合、自分が予測した反応が相手から得られなかったとしても、相手にその責任を求めることはできません。もし、そうするなら最初から引き受けないことが大切です。

責任の境界線を引けない場合には、相手があなたにもたれかかることを許す、逆にあなたが誰かにもたれかかることになります。最初はよかれと思っていても、やがてストレスが生じて関係のバランスは破綻し、不健全なものになります。分らない
内に共依存になっていると、境界の混乱による悪循環になることもあります。

境界の混乱を避けるための原則を遵守するようにしましょう。

・自分と相手の責任の範囲は別である点を認識しておく
・相手に代わって相手の責任を負わない
・自分の問題を相手に解決させない
・相手の問題を解決するのではなく、問題に悩んでいる相手に共感して励ます
・相手を攻撃するのではなく、事実と向かい合わせる
・自分の問題なのに、事実と向き合わず、相手のせいにする

 親しいほど、境界を引くことは寂しさを感じることになります。寂しさから逃げたくて恋愛や結婚にやすらぎを求めるのが一般的だとしたら、境界は引くことに抵抗を感じるでしょう。しかしその思いは必ず裏切られるでしょう。人はそうなっていないからです。

恋愛や結婚は逃げ場ではなくクリエイティブなことを創造する場所なのです。その意欲と行動が寂しさを消し去ることはありますが、創造のない関係は、寂しさを増幅させるだけです。つまりどのような関係であっても人が出会えば、なにかを生み
出すものでなければ発展的な関係は培えないのです。

境界を恐れず、積極的に受け入れて、つまり自立した者が肩を寄せ合い、クリエイティブに実行することに力を注ぎましょう。境界線の前に看板を立てましょう。

「あなたはなにをしたいのですか?」



2011年3月20日日曜日

私は親密になるのが怖い、どうすればこの問題を乗り越えられる?


 コントロールを少しずつ手離す


信用できない、つまり信用したら傷つけられるという思いの向こうにあるのは、コントロールを手放したら、何が起こるか判らない。という不安。
その苦しさに一番のポイントは、すべてか無か、白か黒か、右か左か、上か下かという発想です。
しかし、現実は、両極端ではなく、中間がほとんどなのです。
そして、人間にはコントロールできることと、できないことがあります。

できないことの見本として自然はそのいい例ですが、歩いていたら、自転車が飛び出して来た。
なんていうのもコントロールできません。

しかし、そういう場面で自分がどう対処するかは、自分が選択できることですので、コントロールできます。
なにがコントロールできて、なにをコントロールできないのか、それを見極める力こそ必要なのです。

東北の大震災を見ても分るように、そもそも人生はコントロールできないのです。
人生をコントロールできないけれど、自分を大切にすることはできます。

その上でコントロールできることはコントロールするのが自分の力なのです。 
なんでもコントロールすることが力ではないのです。
親密になるとは、互いに自分をさらけ出す事です。
そこで生じる不安があってもおかしくはありませんが、
もし本当に恥ずかしいと思う事があれば、コントロールすればいい。
つまり成長するようにしたらいい。
それを含めて一歩ずつ歩みよるようにしてください。
どういうことかと言うと、好きな異性と初めてのデイトをしたと仮定します。

そこで、いきなり自分のことをさらけ出すと、相手も驚いてしまいます。
すると、困惑して離れようとするかも知れません。
あなたは傷ついてしまいます。

逆に、なにも出さないと、相手は嫌われたと思い、やはり離れようとするかも知れません。この場合もあなたは傷ついてしまいます。
つまり、あなたを愛していても、コミュニケーションの仕方の問題で、うまくいかなくなるなのです。
互いに安心できる範囲で、少しずつ、歩みよるようにしていけばいいのです。 

なにより思い出してほしいことがあります。
ほとはどんなに大切にしているひとでも、知らずに傷つけてしまうのです。
その理由は骨董品を扱う知識がないひとが骨董品の手入れをして、傷つけてしまうように、知識がないのが原因です。

同じことを気がつかない間に、自分がしているという事実に目を向けてください。
「そんなつもりはなかった」ということがたくさんあるはずです。
つまり白か黒か、すべてか無か、ということはナンセンスなのです。
完璧主義が働きすぎると、現実から遠く離れてしまいます。

ひとは完璧でないから、愛され、愛したいと思うのです。




2011年3月18日金曜日

ひとを励ます効果的な方法を教えて

 ひとを励ます効果的な方法を教えて



「生きていてくれてありがとう。」の気持ち忘れない

今回は勇気づけ、励ましのご相談です。

こども、パートナー、仕事仲間、身近な大切な人を励ますには、相手の立場になって考え、行動する。。。。それがなかなか難しい。・・・でも、注目するポイントを変えれば意外と簡単なのです。

今回は、話題になったアイドルの不祥事、のりピーの事件も参考に、効果的な方法をご説明します。
タレントの「のりピー」こと酒井法子の薬物事件は、最初、のりピーの夫の逮捕を受けて、のりピーの失踪という形で始まりました。

そのとき、日本国中が、のりピーの生存に対して不安が走り、大々的に報道が始まりました。
やがて、事件は急転回。
行方不明から犯罪者、さらに自首、逮捕を経て、一斉にのりピー叩きに変わりました。
「自殺」を心配した人にとって、結果は落胆に変わりましたが、同時に「安堵」もあったのではないかと思います。

これと同じ経緯は、家族の間では頻繁に起こります。
連絡のない家族の一員に心配します。顔を見ると、安堵して、怒りに変わります。
「いままで何をしていた!」と、自分の感情に注目して怒りをぶつけます。
最初は、相手のことしか考えていなかったのです。
安堵すると自分の感情処理の補償を求めます。この段階でこじれます。
「心配したんだよ」で、いいのです。

それこそ、最初に「のりピー」に届ける言葉なのです。
「なんてことをしたんだ」ではなく、「心配したんだよ。生きいてくれてよかった」
仮に「死ぬわけないよ」と言われても、それでもやっぱり「日本中が、生きいてくれてよかった」なのです。

励ましの言葉は立ち直る勇気になります。
この事件は、勇気が不足していたから起こった事件です。
甘いと思われるかも知れませんが、罪は罪として法の裁きを受けるのですから、もう少しレベルを下げてあげることも必要なのです。

逆に、責めて村八分にしたら、薬物から脱出できない。
薬物はやめても、他の形で問題が生じます。
物事には光の部分、陰の部分、いいこと、悪いことがあります。
陰と悪いことばかり見ていると元気がなくなります。

勇気づけるには、勇気づけられる場所から、見ることが大切なのです。
人を大切にするとは、特別なことをしても、しなくても同じです。

私は、随所に、イチロー選手を幸福の鏡のように取り上げていますが、イチロー選
手のように、特別なことをしなくても、生きることには意味があるのです。

「のりピー」の事件は他人事としてでなく、大事なことを学ぶ機会になっています。

注目するポイントを自分から相手に変える。
それだけでいいのです。余計なことはしない。

同じことは、たばこやアルコール、その他依存症問題の解決に役立ちます。
たばこを吸いたい・・・不足へ注目するのではなく、自分の気持ちに注目する。
それでも不足に勝てない・・・その原因は、ほとんどが寂しさです。
寂しさから目をそらせない。

そこで、たばこやアルコールが、さびしさを解決するかどうか考えてたら、答えは出ます。
食べ物で寂しさは消せない。偽りの愛情でも消せない。

自分が本当の自分になっていくプロセスこそ、揺るぎのない愛情が確認できる機会。
なりたい最高の自分になるプロセスを大切に・・・寂しさをネガティブな感情にしない

2011年3月11日金曜日

自分のことを隠そうしてしまう習慣を変えたい

家族のことを話すことに抵抗があります。どうしたら気楽に話せますか?




アサーション権を念頭に、ゆっくり少しずつでいいので、話したいときに。


こどものときに自分の経験を受け入れないように学習すると、家族のことを話す習慣が失われます。

自分の見たことの無視を憶える背景には、恐怖、恥、罪の意識を認めたくない気持ちがあります。親のアルコール依存症はその典型的な事例です。

自分の経験を受け入れない、これは主に親が子供に与えた苦痛に対する防衛です。
与えられた苦痛に対して、論理的に説明する能力がなくても、なにかおかしい、何かが間違っていると感じたのです。

これに対して、子供側から生まれた考えは、誰にも言わなければ、これ以上ひどくなることはないだろうというものです。つまり、自分さえ黙っていると自分がどう感じているか、誰にも分からない。目につかないようにしていたら気づかれずにやり過ごせる。

自分が感じずにいたら、苦痛は何事もないまま去っていく。と考えるのです。

こうして手に入れた安心と引き換えに「沈黙」を自分のやり方にしてしまったのです。友人、知人が家族のことを話しても、自分は話さないと決めて習慣化しているので話せないのです。

沈黙は単なる沈黙でなく「防衛」です。

自分が防衛すると、相手にも、なぜか理由が不明であっても、不安、不信が芽生えます。相手は防衛してきます。防衛の応酬が働き、親密なコミュニケーションができなくなります。

防衛はコントロールですが、親の言動についてコントロールできなかった分、自分をコントロールすることを憶えたのです。

成人してコミュニケーションする際にも、自分をコントロールします。人は誰しも「親の心、大人の心、こどもの心」を使ってコミュニケーションしていますが、自分をコントロールすることを憶えたので、無邪気なこどもの心を使うことが極度に不得手です。

このスキルの不足で、親密な関係が作るのが苦手です。親密さと愛情を混同するようになり、どこまで親密なコミュニケーションをしたらいいのか、自分で判断できずに人と人の間にある境界を越えてしまうことが起こります。

親密さを飛び越えて一気に愛情関係にジャンプする、あるいは愛情を無視して親密になれずに、人間関係がぎこちなくなります。

解決する方法は、ゆっくり少しずつでいいので、話したいときに、自分のことを話するようにしていきましょう。最終的にはコントロールを手放すのですが、一度にすると失敗するので、すこしずつ進めていきます。あせらず慣れることが大切です。

話したいとき話す、話したくないときには話さなくていい。・・・・アサーション権を忘れずに・・・
ゲンキポリタンの愛ピがお答えしました